戦国めし

戦う! 三英傑の陣中食はコレだ 戦国なごやめし

群雄割拠の時代、「食」を大事にした軍ほど強かった。武将たちの“最強”を支えた食事

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが縦横無尽に大地を駆け巡った戦国時代。深謀遠慮をめぐらし、休むことのない戦いの日々を支えるため、陣中の食事も様々に工夫されていました。いざ合戦が始まれば、ゆっくり料理などできず、戦が長引けば長引くほど兵糧の確保に頭を痛めなければなりません。

普段は玄米などを一日五合ですが、戦の間は一日で一升もの白米を食べ、豆味噌、鰹節、梅干し等を携行します。腹が減っては戦ができぬ、の言葉通り、戦国では兵糧に重きをおいて、多人数を動かすための兵站の確保を大事にした軍ほど強かったと言われています。エネルギー切れをおこさぬよう、日頃から粗食に体を慣らし、塩分・水分補給を大切にした武将や足軽たち。ここではその食事の一部をご紹介します。

戦い続け、考え続ける戦国時代! 武将たちの食事

信長、秀吉、家康の三英傑が闊歩した戦国時代。 この三武将は何を食べていたのだろうか?
ほぼ同時代を同じ地域で生活していたため、それぞれに共通しているのは豆味噌や麦めしなど。 接待や茶会など、ハレの日をのぞくと、普段の食事はいたってシンプルだ。

織田信長(1534-1582)

桶狭間の戦いの前に湯漬け飯(今でいうお茶漬け)をかきこんで出陣し、見事勝利した。濃い味が大好きで、京へ上洛した際は上方の薄味が大嫌いだった。また、宣教師との交流を持ち、金平糖など南蛮菓子も食べていた。

豊臣秀吉(1536-1598)

天下取りをして美食が自由になっても素朴な料理が忘れられず、若い頃に食べた故郷・中村の大根や牛蒡などを食べていた。兵糧の大事さを知りつくし、合戦ではしばしば敵を兵糧攻めに。タイ、タコなど海の幸も大好きだった。

徳川家康(1542-1616)

普段の食事に気を遣い、麦めし、豆味噌、薬草などを重んじて粗食を貫いた。武人は贅沢を好んではならない、と自らと家臣を戒め、豪華な食事を好まなかった。終始健康維持に気を遣い、漢方薬についても学び、薬草園も作っていた。

三英傑はじめ、東海地方出身の戦国武将たちが好んで食べていたもの

湯漬け
桶狭間の戦いの前に、信長が食べたことはあまりにも有名だが、気持ちが落ち着くという理由から、戦の前に武将たちが好んで食べていた。

牛蒡の煮付け
牛蒡は当時から正月時期などの野菜として食べられている。牛蒡のほか、当時は里芋の煮付けもポピュラーな食べ物。

焼き味噌
東海地方出身の武将たちの「最強」を支えた焼き味噌。簡単なものでは、豆味噌を平たくのばして炙ったものから、すり生姜やゴマなどを混ぜ、ゴマ油で焼いた豪華版まで、戦国武将や兵士たちにとって最重要といっても過言ではない食糧。普段の食事から携行用まで用途は幅広かった。

味噌を塗って焼いた握り飯
足軽たちは出陣する際、この握り飯を腰に下げて歩いた。また、武将たちも好んで持ち歩いている。今食べてもとっても美味しそうな焼きお握りなのだ。

大根の煮付け
秀吉は、故郷の中村(現名古屋市中村区)からわざわざ大根を納めさせていた時期もあった。濃い目に味つけた煮つけは、武将たちが好んで食べた。

麦めし
健康に気を使った徳川家康は普段から麦めしを好んで食べていたとされる。家来が気を使って白米飯を勧めても喜ばなかったという。家康以外の武将たちも、普段は麦めし、玄米めしを食べることが多かった。

外国からもたらされた食べ物

金平糖
日本に渡来した宣教師たちがもちこみ、織田信長はじめ中世の武将たちに行きわたり、茶会の時の菓子などにも利用されていた。金平糖は保存がきくため、旧日本陸軍も携行食糧の一つとして利用していた。

葡萄酒
新しいものをどんどん取り入れるのが好きな信長は、外国からもたらされる葡萄酒も飲んでいた。

戦うめしの代表格兵糧丸は現代のカロリーバーなのだ

兵糧丸とは、陣中食の一つで、そば粉や大豆粉、黒ゴマなどを酒で練って丸薬にした携帯食糧のことです。武士団や用途によって作り方、調合する中身は違いますが、腹持ちがよく、高カロリー。時には、その家秘伝の薬草などを混ぜ合わせます。現代のカロリーバーのようなものですね。握り飯よりも携行しやすく、腐りにくいのでその製法はそれぞれの家中で大切に守られてきました。

タンパク質やでんぷん質(米粉やそば粉、麻の実、麦の粉等)を中心にして、材料を酒で練り、天日に干す。この作業を何度か繰り返して丸薬にし、蒸します。当時は合戦以外にも飢饉に備える意味もありました。陣中で炊飯をする余裕のない時、長距離を突破する強行軍や遠征の際にも役立ちました。

兵糧丸は歴戦の武将たちのスタミナを支える大切な栄養素が入っています。和風カロリーバーは実戦の中で考え抜かれた知恵の丸薬でもあるのですね。

いざ出陣! 足軽たちの戦うめしは?

いざという時、足軽たちは腰に弁当をぶら下げ、食糧を布で巻いて体にくくりつけて出陣しました。現代では考えられないような過酷な行軍の末、激しい戦いに挑むのですから備えは入念に行われました。梅干し、かつお節、豆味噌などは陣中食としてしばしば用いられます。しかし、平素はかなり粗食だったようです。大豆は軍馬の大切な飼料なので、普段は糠(ぬか)味噌汁を食べるなど、ぜいたくな暮らしはできませんでした。

野営、飢餓に備える秘策も心得て出陣する

いざという時は陣笠を釜の代わりにして粥を炊いたり、道すがら拾った野草なども食糧にする、非常食の知恵も発達していたといわれています。

見てみよう! 足軽たちの兵糧、こうやって持ち歩いていた!

打飼袋(うちがいぶくろ)

握り飯や焼き味噌、梅干しなどの食糧を、細長い袋に入れて縛り、それを袈裟がけにして体にくくりつけていた。筒状になっていて、両方の口を紐でしっかり縛って完成。いまでいうウエストポーチのようなもので、歩きながら食べ物を取りだせる。最も貴重な食糧を常に体から離さない、という非常時の鉄則で、どんな時でも体にくくりつけておく。

芋の茎の縄

この縄、普通のロープではない!
歴戦の兵士だからこそ編み出せる陣中食がこれ、芋の茎をよりあわせて縄状にしたものだ。なんと茎を味噌で煮て、乾燥させたものをロープにして腰に下げておく。これだけで、噛めば非常食にもなるし、湯に浸してインスタント味噌汁に。ロープ兼携行食、というすぐれもの。芋の茎以外にも、飢饉や、敗走時に山野を隠れながら帰る非常時に備え、野草や干した野菜をいかに食糧にするか考えられていたという。

兵糧袋

兵糧丸や薬草、焼味噌、梅干し、干し飯などを入れて腰にぶら下げておく。最低でも三日分の食糧は身につけておくようにし、打飼袋の他に、こうした小さな袋に食糧を分けて持ち歩く用心深さが必要だった。こうしておけば、袋を一つ失っても、食べ物が全部無くなるというリスクを回避できる。

面桶(めんつう)

今でいう弁当箱で、現代でも見かける曲げ物。これを巾着袋や網袋に入れて、腰に携えた。「腰兵糧」ともいう。最近はあまり聞かない言葉だが、「腰弁当」という言葉がある。これは「腰兵糧」という言葉が転じて、毎日登城・出勤する武士やサラリーマンを指す言葉になった。
この弁当箱は自分の食糧を入れるほか、水を汲み出したり、米や味噌の支給を受ける際の道具として使われた。また、竹筒や瓢箪も「水筒」として、面桶同様に携行していた。